2016年8月22日 (月)

告知、「俳句×美術 IN 篠山」展

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2016年9月17日から10月2日にかけて、「篠山まちなみアートフェスティバル」サテライト小南邸と旧後川小学校の二か所で開催される「俳句×美術 IN 篠山」展に参加、出品します。本会場となる旧後川小学校では22日、俳人早瀬淳一氏とライブ俳画を、サテライト小南邸では俳画の小品を展示する予定です。

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ライブ俳画について

 俳画はその様式を完成させた与謝蕪村で知られていますが、制作の根底には東洋の創作原理である書画一致、あるいは書詩画一致という考えがありました。これは書(文字、文学)と画は起源を同じくし、同等で一致するという考えです。その考えにより同じ画面に書(文字、文学)と画が同等に描かれました。俳画もその一つです。
 しかし現在、そうした様式は書詩画一致という考えと共にすっかり影を潜めています。その大きな要因は近代化という名のもとに西洋から取り入れたリアリズムという考えの浸透にあると思います。
 リアリズムは書詩画一致の考えと180度異なり、対立し、ぶつかるのです。

 その考えとは、人間の意識と独立した厳然と存在する自然世界をまず想定します。人間が現れる以前からそこにある不変的自然世界です。後からやって来た人間は、あるいは画家は、彼の目に映ったそこにある不変的自然世界を出来るだけ正確に、見えた通りに絵にします。これがリアリズムです。そしてその行為が写生=スケッチです。
 この考え方によって取り出された画は、書(文字、言葉)と起源を一にしないのは当然であり、書と画は全く別の物となります。
 画の起源は画家個人が視覚を通して対峙する不変的自然世界(物質)の側にあり、一方、書(文字、言葉)の起源は集団社会にあり、いわゆる人工物の共有と継承、変遷です。つまり概念であり、これによって自然世界や心の動きが綴られ表出されます。

 かくして書詩画一致論は西洋の文脈により否定され、「書は美術にあらず」と不変的自然世界が起源の画から分断された書(文字)は美術から追放され、そして画の習得の糧であった臨画教育が未開の業であると一掃されます。
 かつて画の習得は、書(文字)の習得がお手本を写す臨書であったように、画のお手本を写す臨画だったのです。この臨画と臨書という習得法は西洋の文脈に反し、二つの起源が同一だということを示しています。

 そもそも、かつての日本にはリアリズムという考えはありませんでした。不変的自然世界という想定などなく、自然世界は様相も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども同一性を保持することができないと考えられていました。これが諸行無常です。
 これがメタファーでもアナロジーでも何でもなく、実際そうであるという思いに、私は昨今、強く傾いています。…因って、180度異なる西洋のリアリズムが懐疑の対象となります。

 かつて藤原俊成は自然の花や草木の色や香り形を知覚できるのは、歌があるからだと言いました。彼はソシュールが生まれる数百年前から記号論を説いていたのです。つまり自然世界の知覚認識は取得された和歌などの概念によって表出し、因って、その概念の変化や変遷に伴い、集団内で知覚認識される自然世界の様相が絶えず変化するということです。これが諸行無常の真意ではないかと思います。又、過去の画や文献において、そうした自然世界の様相の変化があったのではないかと読み取れ無くはない事例が少なからずあります。(「空はどうして青いのか?」「日本に遠近法が無かった理由」など参照)

 つまり、画の作用は過去の作品(図像、図式)を見たり臨画することによって記憶の中に概念として取得されます。そして取得された概念によって知覚認識としての自然世界が表出されます。こうした画の作用は書(文字、言葉、文学)と殆ど同じと言っていいでしょう。これが書詩画一致ではないかと考えています。

 ライブ俳画の試みは、こうした考えがベースにあります。俳人は会場において即興で俳句を作り揮毫します。私はその句を画に変換します。俳人はその画から俳句を作り、再びその句を私が画に変換します。…これを何度か繰り返し、一つの画面を作り上げます。この時、打ち合わせなど一切無く、全てぶっつけ本番で行います。又、それをするにあたり、くだんの不変的自然世界など一切介入せず、あるのは二人の記憶のみです。記憶の交感のみなのです。
 その記憶の交感において、完成されるであろう俳画は個人の記憶、あるいは個を超越した誰もが予期しない新しい世界の表出の可能性を期待できるということです。…これが私の目論みです。

 しかし、ここで断っておかねばならないのは、…そして、ここが一番面白く興味深いところだと思うのですが…、以上の見解はあくまで私個人の考えであり、この展覧会の総意、同一見解では全くありません。
 ここに集う作家たちは、現代俳句、現代美術の最先端を走る人たちですし、当然、私の考えとは異なるでしょう。しかし冒頭で述べた経緯にてらせば、リアリズムの受け入れにおいて美術も俳句もあまりに無批判、無考慮であったと私は考えています。
 美術は元より、俳句も正岡子規以来の「写生の重要性」に関し、その総括がなされないまま、西洋の動向が安易に踏襲されていると思います。何しろこれはかつてと180度異なる方向なのですから。…間違っていればごめんなさい。
 「書は美術にあらず」も、臨画教育を排斥する自由画運動も、そして俳句の第二芸術論も根っ子は同じです。…これらは全て西洋視点だということです。そしてこの圧力に対処する方法は二つです。西洋に見習い、今までの方法を破棄し、180度方向転換するという現行の方法か、西洋を拒否し、かつての方法の正当性を主張し、探るかの二つです。
 私は後者の可能性を探りたいと考えています。

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